鏡の向こうから愛憎を込めて
おい
おい、お前だよ。どこ見てやがる、こっちを見ろ。
声がする方を見遣るとそこに俺が居た。まったく同じ顔と声、そして少しだけ違う雰囲気を纏った俺が俺に話しかけてくる。…いいや違うな。これは命令なのだ。俺と同じ姿をした俺ではない良く似た誰かが俺を傀儡にしようと目論んでいるのだと本物の俺には手に取るようにわかった。あいつは偽物で本物は俺だ。
おい
おい、こっちだ。こっちに来い。
偽物が俺に命令するな!そっちには絶対に行かないぞ。俺の前から消えろ化け物め!!
遠巻きに様子を窺っていた通行人達から戸惑いや困惑の声が漏れた。それも当然だ。男が一人、姿見に映った自分に向かってがなり立てているのだから。―――触れてはならない系の人物の対応に及び腰になるのは、一般人ならば仕方のないことだろう。余計な世話を焼いて面倒事に巻き込まれるなんてリスキーな真似はせず、ここは大人しくプロフェッショナルに任せるのが正しい行動ではないだろうか―――…ほら、守衛だか警備員みたいな格好の人が駆けつけてきた。やれやれ、これでもう安心だ。
おい!お前いい加減にしろよ!!お前は俺じゃない、俺は俺だ!!お前は誰だ!?俺はお前じゃないって言ってるだろ!!
鏡に映る自分と激しい口論を交わしていた男を落ち着かせようと宥め賺していた警備員だったが、激昂して相手に指を突きつけながら鏡に向かって突進して行く男に引き摺られた状態のまま鏡の向こう側へと一緒に吸い込まれて行った。
え?…はぁ??????
目の前で起きた不可思議な現象に、成り行きを見守っていた野次馬たちが騒然となった。えぇ…?消えた…??
突然消えてしまった男性二人を探すように付近を見渡してもその姿を確認することは出来なかった。偶然この場に居合わせただけの目撃者たちは、二人が『鏡』の中に入っていったのだと認識するほかに納得のいく答えがない。そして恐怖を覚えてその場から逃げ去った賢明な数人を除き、興味本位で鏡に近づいた多くの人が次々と鏡の向こう側へと旅立って行ってしまう。…まるで不倶戴天の敵と対面したかのような憤怒に溢れた阿修羅の如き形相を浮かべ、鏡に映った自分に悪態をつきながら。
そして誰もいなくなった後、鏡から颯爽と飛び出してくる二人がいた。そう、それは最初に鏡の中へ飛び込んだ男と警備員だった。さっきが初対面だったはずの二人は友好的に挨拶を交わして別れ、それぞれの道を足取り軽く歩いて行った。二人とも晴れ晴れとした表情を浮かべていて、心身ともにエネルギーに満ち溢れているのが傍目にもよくわかる。先刻までの鬱屈した何もかもを鏡の向こうにすべて置き去りにしてきたかのような別人ぶりだった。…と言うか別人だった。
あー、清々した。つまらねえ事でみっともなく喚いたり、他人を羨んでやっかむだけの余生なんて冗談じゃないぜ。今すぐハローワークに行ってさっさと就職活動始めないとな。グズグズうだうだ文句垂れて、いつまでも親の脛を齧り続けるなんて小っ恥ずかし過ぎるにも程があるだろーがよ。仮にも『俺』がそんな体たらくで生きてるなんて許せるわけがねえよ。『俺』大人だよ?『こっち』が無能なら『あっち』がやらなきゃ誰がやるってんだ?『俺』の人生は『俺』のものだ。俺が頑張らないで一体誰が頑張るって言うんだよ?
すんませ〜ん。自分、自分が勘弁ならねえんでそっち行って代わってもらってもイイすか?状態だった模様。ウキウキで歩く傍ら壁に掛けられている鏡姿見を見遣れば、さっき入れ替わった『こっちの俺』が憮然とした…それでも期待を捨てきれぬ暗い高揚感に染まった顔で『俺』を見つめ返してきた。…信じても良いんだな?お前は俺で、俺のクソみてえな人生をやり直してくれるんだよな?と叫ばんばかりの焦燥が鏡越しに伝わってくる。俺は俺を安心させるために、俺が一番輝いて見える顔を作って心にも無い言葉をつらつらと並べた。
当たり前だろう『俺』。全部上手くいったら何もかもが元通りさ。生まれてからずっと俺達は一緒だったじゃないか。二人で力を合わせればこれからどんな困難が待ち受けていても乗り越えて行けるんだよ。俺とお前でな!
……………。
……………そうか。俺の事を頼んだぞ、『俺』
ゆっくりと思考能力が低下してゆく元『こっちの俺』の様子に惜しみない愛情を感じながら俺は笑んだ。ああ、こっちの事は任せてくれ。お前は安らかに眠るといい。
彼を鏡のこちら側へと招いた件の姿見からは、彼らの後に鏡の向こう側へと行ってしまった不運な者達が順番に吐き出されていた。ある者は鏡の中の自分に説得されて残り、ある者は力尽くで入れ替わりを強いられて。それでも彼らは自分と同じ姿をした自分自身を信じていた。何故なら彼らも自分自身なのだから…と。―――…まったく笑い話にもならない容易さだと『あっちの彼ら』は呆れ果ててしまう。二度と、再び、彼らが鏡のこちら側へ帰ることは決して無いというのに…
不思議な姿見から最後に飛び出してきた中年女性が、少し離れた場所に立て掛けてあったパイプ椅子を抱えて戻って来る。安心なさい、惨めな『私』の人生は今日この瞬間から『私』が変えてみせるから。あなたは安らかに眠るといい。そう語りかけて彼女は振り上げたパイプ椅子を力いっぱい鏡面に叩きつけた。
―――己の人生に挫折しかけていた憎い自分自身と永遠に決別するために―――
自分の敵は自分なんやで?そして自分の味方も自分なんや。世の中よう出来とる🫂
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