靆(たなびく)
台風が近づいている。見上げた空には暗雲がみっしりと立ち込め、辺りはひどく温い湿りを含んだ空気に満ちていた。
「傘ァ、持って出りゃ良かったな。」ポツリと独りごちる。
手荷物になるのを厭い、曇天に傘を持たず出かけた迂闊さを今さら後悔しても遅すぎるというものだ。間抜けな俺をせせら笑うように水滴混じりの強風が無防備な体を殴っていく。…傘を差しても意味ねえし…
ふわりと、なんとも形容しがたい臭いが鼻先を掠めた時に漸く異変に気がついた。…後にして思えば、俺の事を鈍間だなんだと論ってくる知人の評価に間違いは無かったのかも知れない。
煙が―――火事かッ!!
靆ように下から上へと立ち昇っていく細長い黒煙を目の当たりにした俺は全身が総毛立つ。仏壇や墓前に供えられた線香のように切れ目なく空へと流れていくそれは、嵐の前の静けさに似た切迫感を否が応でも感じさせた。…俺が、俺がやらなければ…!
「で、人生初の110番にかけたってわけ。」
どっと場が沸き立ち、定番の持ちネタが大ウケした芸人の気分を束の間味わった。面白いか今の?
「はぁ〜…やっぱおまえ憑いてるわ。笑いの神が。」
目尻を拭いながら半笑いで近寄ってきた知人に、もう一度だけチャンスをくれてやることにする。好きとか嫌いとか関係なく武士の情だ。(武士じゃないが)
「俺、言ったよな?黒い煙は人の頭から出てたって。」知人の頭上を人差し指で指し示し上下に振ってみせる。情の大サービスだ、受け取っておけ。
「言ったよな?その煙が途切れたのと同時にその人達がぶっ倒れたのも、消防でも救急でもなく警察を選んだ理由も話したよな?」
ぶり返した笑いを噛み殺しながら知人が何度もうんうんと頷く。何がそんなにツボを刺激しているのだろう。彼我の温度差に風邪を引きそうな予感がしてきた。
「あのな。その件はネットで少し話題になってたから知ってるけどさ、熊除けスプレーの誤噴射が原因だったらしいじゃん?最近市街地でも熊が出るらしいし、誰かがうっかり撒いたんじゃないのか?」
???その件ってどの件だ???
現場に居た当事者の話よりもインターネットの情報…?熊ァ…?スプレーをうっかり…?なんだァこいつ。
俺は知人に注意喚起するのを放棄することに決めた。これって俺が悪いのか?イジりやすい相手だからと軽く扱い、まともに取り合わず見下すような奴の面倒なんてこれ以上見てやる義理もないだろう。
「俺は確かに言ったからな。」最後通牒を突きつけてその場を去る。俺は確かに伝えたぞ…だが伝えていないこともあるにはあったな。
黒い煙は人の頭頂部から立ち昇っていた。これは言ったな。
その煙は強風に煽られることなく真っ直ぐ暗雲に吸い込まれていた。これも言った。
煙が途切れた途端、糸がプツンと切れたように人が倒れた。これも言ったはず。
明らかに心肺停止だとわかる状態だった。…これは言ったっけ?
昏倒したのは一人じゃなかった。…これも言ったよな?
倒れた人数の多さにテンパった俺が110番している目の前で、黒い靄に覆いかぶさられた彼らが煙のように消え失せてしまったのと…悪戯電話扱いされてこっ酷く叱られたのは…言わん方がいいよな?
あいつの頭からその時見たのと同じような黒い煙が細く長くたなびき始めたのも…あーっ!肝心なこと伝えてなかったわ!
これじゃ馬鹿にされても仕方がないか。だからって虚仮にされる謂れもないけどな。明日また会えるかどうかは賭けだが、もしも会えたなら教えてやるか。あいつ俺のこと弄ってくるからそれほど好きじゃないし?
―――居なくなっても別に構わんしな。
ま、なるわな
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